美大でpixivの絵を見せられるか

Mr.:今回の企画展が、日本の現代美術の歴史の上にある、ということをまず言いたい。なぜかと言えば、ここまでアニメ的な絵が現代美術の世界で許容されてるベースには1992年の『美術手帖』での特集「ポップ/ネオ・ポップ」(*5)があり、中原浩大、ヤノベケンジ、村上隆の鼎談とその特集を機に受け入れられた。その辺をまずは共有したい。ハイレッド・センターのように前衛的かつ笑いを誘う文脈から、具体、もの派、 ニューペインティングとあって、で、「ポップ/ネオ・ポップ」。そこから、椹木野衣さんの「アノーマリー」(レントゲン藝術研究所、1992)、「日本ゼロ年」(水戸芸術館、1999-2000)などを見て、僕はその先をやりたいと思った。例えば、中原浩大のナディアのソフビVS村上隆の《プロジェクトKo2》の争点は引用とオリジナルの問題。自分は村上さんの一旦分解して提示し直すほうに可能性を感じたし、今日の争点であろう、カオス* ラウンジと僕らとの関係にも、類似する問題点を感じる。そして2011年にカオス*ラウンジにああいうことがあった後、次の人たちはどうすればいいか。pixiv(*6)もあるけど、あくまで日本の現代美術の地平線での話をしていきたい。あと、僕は今展の参加アーティスト中、一番年上で一世代違う。SNSでみなさんのように素直に盛り上がれていない。逆に盛り上がれるのは、暇な人、ニートなんじゃないのかって思ってるぐらい、世代間の価値観の開きがある。

NaBaBa:僕もできなくなってきています(笑)。

JNTHED:仕事の息抜きにはならないですね……。SNSにも社会性っていうか、責任感や義務感みたいなものが生まれちゃって。本末転倒というか。

Mr.:でしょう? 大学生とか厨二(思春期特有の自己顕示欲や自己陶酔などを引きずる人間を揶揄した俗語)の感じがするんだよ。

おぐち:僕はイラストをやりつつ大学で美術を勉強していますが、イラストを評価してくれる場と、美術を評価してくれる場の2種類があるんですよ。そして、それらの言い分は食い違っている。なので、両方の人からの評価を基準に自分の作品をつくるのではなく、抽象的な言い方ですが、「見ているものはみんな同じなんだから、見ているものの良さを出すこと」を目指しています。今回展示する作品でもわりと普通の女の子を描いていて。例えば足がキレイだったら、みんなが見ている足という視点は同じだから、そこを突き詰めて描けばいろいろな人の理解が深まるんじゃないかと思うんです。pixivの中にあるイラスト的なコピペを排除して、同時に美術的に凝り固まった厳しいイメージもなるべく払拭する。そうやって、見て「楽しい」と思えるシンプルな状態を絵の中に入れたい。それがイラストでの自分のオリジナリティーだと思っています。

JNTHED:要素要素の完成度を高めていけば魅力は底上げされるはず、と。

NaBaBa:おぐちさんは体制的な美術とイラストとの着地点を目指している?

おぐち:2つが錯綜していますよ。お互いが歩み寄って最終的な地点が割り出せればいいと思っているから、大学で美術を学びつつ、イラストをやっている人たちのことも考える、という欲張りな話です。

NaBaBa:じゃあ例えば、自分が描いたイラストを大学の教授に見せられます?

おぐち:そこで悩んでいるんですよ。どうしてもどちらかに寄ってしまう。それに友達は僕が「おぐち」であるとは知らないですね。

NaBaBa:マジですか。

おぐち:大学ではもちろん本名ですが、見てもらう人にはなるべくなら、おぐちと本名の自分を切り離してもらいたい。そうじゃないと「あの人はイラストを描いているから」という状態になりかねないんですよ。

Mr.:SNSで匿名のアカウントを使って違う自分を演じるみたいなこと?

おぐち:別の自分ではないけれど、どちらにもいいところがあるというか。

Mr.:要するに、見せることに相当違和感があるわけでしょう? やっぱり、大学内ではイラストに対して引いちゃうというか、「違うだろ」って普通に思っているよね。

NaBaBa:それっておぐちさんだけではなく、今の美大生が結構抱えている問題だと思うんです。プライベートでpixivでおたくっぽいイラストを描く人は僕が学生の頃も結構いたけど、おぐちさんみたいに分ける人が圧倒的多数で、そういう活動をしていることを大学内では誰にも伝えないですね。授業で絵を提出するにしても大学内での評価に合致するようなテイストに変える。

JNTHED:僕はそのイラスト=サブカルチャーの中のさらに細分化された枠の中でごにょごにょやってましたけどね……(笑)。