ものをつくる際、一次創作、二次創作両方の視点を
知っておくに越したことはない
─ STAG

NaBaBa:僕にとってはJNTさんがカイカイキキに来たことがかなり象徴的な事件なんです。JNTさんはネットの中でサブカルのある種の事象をつくっていた人で、ネットの中なら一次創作者になれたわけですよね。ラク・ガジェットというサイトを運営して、そこで自分のオリジナルの作品をつくり、さらにサイト併設のお絵描き掲示板でみんなが作品を投稿しあう。つまり、ネット世代の二次創作的な流れを踏まえつつも一次創作を展開してきた。その後サイトは終わってしまい、カイカイキキに来てデジタルではなくアナログで自分の作品をつくっているJNTさんに、今ネットで作品をつくる作家としての活動の可能性と限界の両方を見ているんです。

JNTHED:サイトでの活動は楽しかったし、思い入れもあったけれど、やっぱりいろんな意味で徒労だったし、子どもの砂場遊びのようなものだったかなと。

NaBaBa:でも当時はそう思っていなかった?

JNTHED:うん。既存の枠組みに捕われずに、まったく新しいやり方で成功してやるぞ! と思ってたし、自分はそれを見つけられると信じていた。別にそれ自体をもう諦めてるってわけじゃなくて、あの場所でそれを続けるのは自分には難しい、限界だと思った。なんか、いつも同じこと言ってますけど。

NaBaBa:でもその反省があるからカイカイキキに来て、一次創作をしているわけですよね。それは自分がカオス* ラウンジに感じた可能性と限界に通じている部分があって、「それだけだと立ち行かない」みたいなところに尽きると思うんですよ。

JNTHED:おっしゃるとおりです。ほうぼうから突っ込まれまくってます。自分なりの正義や「いや違う、こうだ!」という考えはあるのですが、それに対してダメ出しをされ、その根拠や理由を知っていくと、「なるほど。怒りを感じていたのは、自分の視野の狭さと勉強不足のせいで、勘違いして増長していただけだったんだな」と納得してしまって。すみません、勉強します……という感じで。

NaBaBa:(笑) 。MODにしてもゲーム会社が好意的に受け止めてくれたから成立していた。もし敵意しかなかったら徹底的に潰されていたはずです。実際にゲームにせよなんにせよ、そうやって潰されてなくなったものも多くありますから。

STAG:結局最終的な決裁権を握っているのは権利者サイドで、その上で遊ばせてもらっている感覚だと思うんですよ。例えば、パフュームのCDに必ず入っているカラオケは、素材やボーカルの抽出に使えるんだけど、許容できない規模になった時点でメーカーが動画や音源を削除した経緯もあった。それまでは猶予の範囲だったと思うんですよ。「君ら、盛り上げてね」というところでもあり、手の平の上で遊ばされている部分でもあり。ただ、目に余るようならいつでも切れる。それはもう、文化財を盛り上げるための一つの正しい戦略だと思う。ある日権利者側からNOを突きつけられたとき、与えられた小さい枠の中でアゲインストを唱えても、視野が狭かったり抜けがあったりする。最終的に二次創作の道に生きるにしても、一次創作、二次創作両方の視点を知っておくに越したことはない。

JNTHED:勉強しないでその枠組みに対して怒ると、ギャグになっちゃいますしね。

NaBaBa:生殺与奪権はすでに向こう側にあり、と。コミケでもなんでも、日本では一次創作とそれを盛り上げていく上での二次創作のボーダーが他の国以上にすごくグレーな中でつくられていて、一見して判別しがたい。そこで一次創作に上がっていくものもたくさんあるけど、「これ以上やるとアウト」みたいなものもある。そういう抑えられている感じが僕は嫌で、嫌なら抑える側になるしかない。要するに一次創作で自分自身がメディアの起点となるものをつくらないといけない。そうしないと、いいようにされてしまうと思うのです。

※このグループ展の参加作家6名のうち5名で座談会が行われた。ひるきは欠席。

Text by Kotaro Okazawa, Photo by Fuminari Yoshitsugu
『美術手帖』2012年6月号に掲載