REBIRTH OF THE WORLD

青島千穂

2016年7月22日 – 2016年8月18日
開廊時間 :11:00 – 19:00
閉廊日:日曜・月曜・祝日
レセプション:2016年7月22日(金)18:00〜20:00

摩天楼のお墓ちゃん

村上隆

青島千穂はカイカイキキがマネジメントした3人目のアーティストだ。
1人目はミスター、2人目はタカノ綾、そして3人目が青島千穂であった。

私は彼ら3人と、僕の作品制作を手伝ってくれるアシスタントとして、カイカイキキ工房立ち上げの初期に出会った。

ミスターは僕の生活の全部をサポートし、10年間僕の元で働き独立した。タカノは1年ほどぼんやりと雑事をこなしているうちに、アーティストとしての頭角を現わしてきたので、すぐにデヴューを手伝い、彼女の画集や漫画の出版を手伝った。当時カイカイキキは金がなくて、アシスタントにみんなで食べる食材を持ってくるよう命じるような頃だったのに、出版の金を捻出したりしていた。

そして青島は、僕の作品のデータの部分を手伝っていた。本当に朝から晩まで休みなく働いた。2002年、村上作品で当時としては最大級の作品「ゲロタン」という作品のデータ制作やらルイ・ヴィトンの新規モノグラムの作成が続いていた頃は、全く寝られない日々。週に6日、1日16時間ほどの労働をしつつ、週に1回の休みには、彼女自身の作品を制作をしていた。「日曜画家」という言葉があるが、そういう立場でも、欧米の現代美術業界で活躍できるはずだ、として作品制作にあたっていた。

当時を振り返る青島は、「あの頃はとにかく寝ていなくて、寝れるというだけで、幸福な瞬間だった。。。通勤電車の座席に座った瞬間、幸せな空間が広がった」と、漏らしている。

この3人は、僕の現代美術業界でのひとつのプロジェクトでもあった。それは、「作家の自発性だけに頼らず、ショービジネスの世界の構造と同じように、外部からのプロデュースの力によって、デヴュー可能、作家活動も可能であるはず」 「ある程度のところまで押し上げたら、作家自身の力、運、などで、本物になるかどうかが決定してゆくはず」というものだ。作詞作曲をするミュージシャンを発見し、そこにアレンジやプロデュースを絡ませていって、プロとして恥ずかしくない作品に仕上げてゆくような、そういう感覚での作家の才能の発掘と育成。彼らはその思想に気力と体力で付き合ってくれ、そして1人の作家としてアイデンティティを確立していった。

そして青島はデヴューした。
まず『東京ガールズブラボー』と題したグループ展にデータで描いた人物のプリントアウト作品を展示し、売れた。当時、大型のプリンターが出始め、ということで、キヤノンにプリントアウトをスポンサードしてもらって、ただで20cm×100cm程のプリントアウトしてもらい、天井からクリップでぶら下げた。

その作品が、売れた。3種類ほどの作品がぶら下がって、各作品に複数のお客がついた。当時は大きなプリントアウト自体が珍しかったのかもしれないが、とにかく売れた。売れる=プロの作家のチケットを手に入れた、と僕は思っていた。(『東京ガールズブラボー』では、タカノ綾もよく売れた)
村上のプロデュースといえば、キヤノンを紹介し、『東京ガールズブラボー』という当時有名であった漫画のタイトルの使用許可を得て、そのタイトルに沿った紹介文を書き、展示会場と交渉した、、、という感じ。青島自身の作品の方向性的には、その時はあまり言及せず、好き放題に描いていた。

その後、幾つかの僕がキュレーションする展覧会に作品を提出するうちに、僕は「スーパーフラット」という展覧会を企画することになった。敗戦後の日本の文化状況を俯瞰し、かつ顕微鏡で見つめるような構造のコンセプトを持った展覧会で、オタク発生までの構造を語るのが僕の趣旨だった。展覧会の制作と出版を同時におこなうプロジェクトで、東京で活躍する漫画家、アニメーター、ファッションデザイナー、音楽家、サブカルを構成していたカッティングエッジな人々に声がけしていた。
しかし、現代美術のエリアにおいて、僕がチョイス可能な作家がいなかった。内容的にも政治的にも。僕は既に日本現代美術業界では鬼っ子となっており、スポイルされていた。また、日本の現代美術は、敗戦を忘れたような、欧米追従型の形式を真似たものが多かったので、コンセプトの文脈においても既存作家は選べなかった。
なので育てている最中の、ミスター、タカノ綾、青島千穂らを展覧会に組み込んだ。
この3人は、作家としての立ち位置を、とにかく正直に己の人生を投射することを信条とさせていて、欧米の現代美術のトレンドを全く無視させる形をとっていた。正直=戦後のサブカルを浴びて生きる生体サンプルという考え方だ。
青島には、展覧会場の大きな壁、25m×8mほどの壁にプリントアウト可能なデータ壁紙の制作を頼んだ。当時は、それだけ大きなプリントアウトの経験が業界自体に乏しく、何度も何度もバグが発生し、難航を極めたが、故に一般観客には目新しいインスタレーションに見えたようで、大好評を博した。

村上のアーティストプロデュースの発射台としての仕掛けは「スーパーフラット」展で一段落し、そこから各作家のキャリアがスタートした。日曜画家でしかなかった青島に、「スーパーフラット」での巨大な壁紙作品は大きなインパクトを与え、BLUM&POE、ペロタン画廊等での個展の機会が去来し、カーネギーインターナショナルに選ばれる作家にまでなって行き、ロンドンの地下鉄の構内や、ボストンMOCA等でも大型の壁紙作品は好評を博した。
特にカーネギーインターナショナルでの出品作「マグマ魂爆発。津波は恐いよ。」 は、津波と火山噴火をテーマにした超大作で、その作品を発表した直後、インドネシアの津波が発生して、その作品を描いた魔女と囁かれるようにもなってしまった。
この当時、今回も一緒にアニメーションを創っている、ブルース・ファーガソンと出会う。彼とはファッションブランドのイベント時のアニメーションインスタレーションを造る作家で、東京のルイ・ヴィトンのショウで出会った。そして彼とともに、青島の作家としての印象を決定づけるアニメーション作品 「CITY GLOW」を発表するのだ。

アニメーションは、未来都市のビル群が顔を持つ1枚の作品、アニメーションと同名の「CITY GLOW」が起点となり、南国のむせ返るような自然の霊的な世界や、日本の墓場の風景が混沌と紹介される作品だ。2004年、青島が香港のデザイン会議に招待されたおりに観た香港の摩天楼に刺激されて描かれた絵画作品「CITY GLOW」。その頃の香港は、まだ中国返還後の混沌とした気分が続いていて、そうした雰囲気の中でデザイン会議も存在し、若者たちの熱い情動を感じておののいた青島がみた摩天楼は、単なる風景を超えて、動き出す中国の胎動を感じ取って、生き物に見えてしまった、という、シャーマニックな変換を非常にピュアに表現している。

その後、青島は自分の作家としての背景を探るようなエクササイズを始める。1年間、毎日1点の心の風景をスケッチするという物だ。その中で、彼女は自身の心の暗黒部分に捉えられていき、迷路に入っていってしまった。そしてデータでのイラストや、アニメーションのアイディアを練れなくなってしまう。

2011年東日本大震災。青島はテーマにしていた天変地異が実際に日本で起ってしまう。自然の大きな胎動をスピリチャル系の紋切り型な印象で感じていた世界観のリアリズムは、青島にショックを与え、こじれていた心のカギが再び開けられ、作品制作のきっかけを再び得ることになった。それが、2015年シアトル美術館で発表したアニメーション作品「高天原」である。
そして今回は最新作インタラクティブアニメーション「お墓ちゃんがぼんやり思うこと」と共に発表する。アニメーションパートナーは再びブルース・ファーガソンと彼の工房ダークルームスタジオだ。また、数点、新作のセラミックの小品も発表する。

彼女を取り巻く環境を克明に綴ってきたが、作家として、もしくは作品内容はどうなのか?と問われれば、『イノセントかつスピリチュアルな発想に基づく、アウトサイダーアートの文脈と日本の敗戦後の文化的なコンプレックスを合体、サンドイッチさせた作風』 といえようか。それが、男臭い文脈ガチガチの現代美術の世界観の中で、ぽっかり無風地帯になっている、女性的なスピリチャルな世界に嵌り込む。
新作の「お墓ちゃんがぼんやり思うこと」では日本の長唄風の曲に詩も書いている。この世とあの世の境界のない世界が歌詞の内容だ。

1番
私は寂しいお墓です
カリンのなるこの木の下で
いつも誰かを待っている

やっぱり寂しい
寂しいよ、、、

あなたはだあれ?
行かないで

こんなに早く死ぬなんて
びっくりしちゃった
本当にびっくりしちゃったよ、、、

つらかった日々も懐かしい
今はただぼんやりと
風の音を聞いてます
カラスがカアカアないてます

ほんとにココはどこかしら?
私はココになぜいるの?
あの世とこの世をいったりきたり

あなたはどこ?
会いたいよ、、、

2番
私は寂しいお墓です
いつからここにいるかしら

雪がつもって、桜が咲いて、セミが生まれて
葉っぱが踊る

こんなに早く死ぬなんて
びっくりしちゃった
本当にびっくりしちゃったよ、、、

ああヤバい もうダメだ
最後にそう思ったんだ

今はもう痛くない
虫や花みたいになりたいな、、、

時々あなたがいる気がする
私の声が聞こえますか?
あの世とこの世をいったりきたり

あなたはどこ?
会いたいよ、、、

青島千穂の世界は、現代美術の文脈とは遊離して、ふわふわとこの世に漂っているだけである。