作品の表現主義性が増していくということは、規律的にコントロールする強化された形式を要する

中村一美

2016年3月8日 – 2016年4月2日
開廊時間 :11:00 – 19:00
閉廊日:日曜・月曜・祝日
レセプション:2016年3月8日(火)18:00〜20:00

緊急開催

アーティストトーク 中村一美 新作を語る

日時:2016年4月2日(土)15:00〜16:30
入場無料

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絵巻45, 2015
油彩・白亜地・綿布
1620 x 1305 mm

視覚的不協和音~表現主義性~形式性

(1)今回で第2回目となるカイカイキキギャラリーでの個展に際して、思うところを簡単に記してみたい。

 2014年9月の第1回展は、主として、斜行グリッドの作品を中心に発表した訳であるが、今回は、それら斜行グリッドの〈絵巻〉シリーズに加えて、私が今までに取り組んできた他の表現主義的なシリーズも同時に展示してみようと思う。〈死を悼みて〉、〈存在の鳥〉、〈Y字型〉、〈聖(ひじり)〉等々を加えて。
 
今回は、斜行グリッドと他のシリーズとの対比的な差異が、一目了然に見てとれるはずである。そこに必然的に発生する、ある種の視覚的きしみのような不協和音は、私の意図するところである。視覚的不協和音とは、私にとって、世界の意味であると同時にまた不-意味でもある。世界は、言い尽くされた事ではあるが、無秩序そのものにかろうじて判別可能なかたちが与えられているようなものである。我々は、そのような無秩序に麻痺し、あたかもそれらが永遠不動の真実であるかのような錯覚に陥っている。そのような錯覚に陥った我々にとって無秩序こそ、最も過ごしやすい環境であり、また、完璧な秩序なのだ。

これらの言葉は、いつもの私特有の韜晦に満ちた反語的言い回しだろうか。道元禅師の言葉によれば、世界とは、絵画そのものであり、また、絵画それ自体が、世界そのものであるという。(『正法眼蔵』「画餅(わひん)」) 私は、この言葉を、透察に満ちたひとつの真実を言い当てたものと理解している。その、視点において見れば、今回の個展の不協和音それ自体も、世界それ自体の不協和音、あるいは無秩序、あるいは、不-意味と一致するはずである。このような物言いは、賛同を得られないかもしれない。しかし、このように感じる私自身がいて、絵筆をとり、この不協和音に満ちた世界の中でこのような絵画を制作していることもまた、一つの事実なのである。

(2)表現主義的な方法を強めて、絵画を制作する場合、それらの絵画は、往々にして支離滅裂なただ破壊的な様相を呈するだけのものになりがちである。まさしく無秩序そのもの、混沌そのものと呼べるような絵画・・。 本来なら、不協和音、無秩序、不-意味を標榜する私の絵画群は、そのようなものこそ相応しいはずである。が、しかし、私はそこに形式的な範疇における制御をかける。表現主義的な暴挙とも呼べるような絵画に、形式的な読み取りを可能とする方法を与える。あるいは、与えようとする。むしろ表現性を強めれば強めるほど形式性を強化する必要、あるいは課題が増えてくる。

世界は、暴挙に満ちている。あるいは、不測の事態に満ちている。道元の言葉によって解釈するならば、絵画とは世界であった。世界とは、絵画であった。形式とは、束縛し、自由を奪い、無限の可能性を制限することと等しい。しかし、それらが機能することによってしか成立しないような「自由」もまた存在する。私の絵画とは、そのような、「自由」へ向かうような形式を探索しつつ、本来の表現主義的な絵画の持つ可能性を捨て去ることなく、今までとは異なる方向を探る事を旨とする。

中村一美